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量子コンピュータの化学計算はどこまで来た?量子優位が言えない理由
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- 量子優位性
- 強相関
- 脱量子化
- 誤り訂正
- 論理量子ビット
- 量子埋め込み
- テンソルネットワーク法
- 表面符号
- DFT
- タンパク質–リガンド複合体
- ルテニウム触媒
- 結合エネルギー
- STO-3G
- GPU
- teraquop
- Hubbardモデル
目次
分子や材料のふるまいを計算で予測する仕事は、化学と物理の実務そのものである。新しい薬の候補を絞る仕事も、電池の材料を選ぶ仕事も、最終的には電子がどう分布するかの計算に行き着く。ところがこれを厳密に扱おうとすると、必要な計算量は扱う原子の数に対して急激に膨らみ、ある大きさから先は計算できなくなる。
ここに量子計算への期待が集まってきた。量子計算は原理からしてこの種の計算に向いているはずだ、という期待である。実際、量子計算がどこまで大きな系に届いたかを示す報告値は、年々大きくなっている。
ただ、期待を確かめるには、届いた先だけでなく比べる相手が今どこにいるかも見なければならない。量子が効き始める境目は、量子側の性能だけで決まるのではなく、同じ問題を古典の計算機がどこまで解けるかで決まるからだ。古典側の計算能力が上がれば、境目はそのぶん大きな系の側へ移る。「ここまで届いた」という報告と「まだ古典で足りる」という報告は対立しておらず、同じ境目の位置を量子側と古典側から報告している。
量子が効き始める境目を動かしているのはどちら側なのか。届いた規模の報告と、古典側が押し返した報告を並べて読む。
境目を動かしているのは、量子側が届いた距離だけではない。古典側が押し返した距離も、境目を動かしている。 化学と材料科学は、量子ハードウェアの潜在的な「キラーアプリケーション」の分野と広くみなされている1。2026年に入って、量子と古典を組み合わせたハイブリッド計算はタンパク質–リガンド複合体の規模まで到達したが、著者のMerzら自身が「量子優位性の根拠とはみなさない」と明記した2。量子側が過去に「古典の手が届かない」と発表した成果についても、あとから古典手法が追いついた例を、EisertとPreskillが挙げている3。2026年3月には、量子アルゴリズムを当時のハードウェアと同程度の規模のままGPU上で古典的に走らせ、標準的な古典手法であるDMRGの精度をほとんどの系で上回ったという報告が出た。著者のHosseini JenabらはこれをNISQ(雑音のある中規模量子計算)ロードマップの相当部分の「脱量子化」と呼び、化学における量子優位性の位置はさらに大きな量子ビット数の側にあるかもしれないと示唆する4。つまり、量子が優位に立ちうる範囲は、古典が苦手とする強相関(電子同士の相互作用が強い系)の領域へ狭まりつつある3。
古典の上限が上がると、量子が効く区間は量子の側が変わらなくても縮む
※ この節の数値は説明のための仮定で、測定値ではありません。
問題の大きさを一つの数で表し、二台の計算機がそれぞれ使える精度でどこまで解けるかを考える。古典の計算機は大きさ 10 まで、量子の計算機は大きさ 40 まで解けるとする。量子が効くのは、古典が解けず量子が解ける区間、つまり 10 を超えて 40 までで、幅は 30 である。
一つ目の場合では、量子の計算機が 40 から 70 へ伸び、古典は 10 のままである。区間は 10〜70 になり、幅は 60 に広がる。二つ目の場合では、量子の計算機は 40 のままで、古典の計算機が 10 から 35 へ伸びる。区間は 35〜40 になり、幅は 5 に縮む。古典が 40 に届けば、区間は消える。
幅が広がったのは量子が伸びたときで、縮んだのは古典が伸びたときである。そこから次の二点が出てくる。
- 量子の側が届いた大きさだけでは、量子が効く区間の幅は決まらない。同じ 40 でも、古典の上限しだいで幅は 30 にも 5 にもなる。
- 区間の下端は古典の上限で決まるので、古典が伸びると、量子の側に何の変化がなくても区間は縮む。
12,635原子まで来た
タンパク質–リガンド複合体とは、酵素などのタンパク質に薬剤候補などの小分子(リガンド)が結合した状態を指す。結合の強さを第一原理から見積もる波動関数法は精密だが、原子数が増えるほど計算量が膨らみ、これまで小さな系にしか適用できなかった。
Merzらの研究チーム(クリーブランド・クリニック、理研R-CCS、IBM Quantum の計24名)は、量子埋め込みで分子をフラグメントに分割し、各フラグメントを量子と古典を組み合わせたHQC(Heterogeneous Quantum-Classical)法で解くワークフローを開発した2。対象にしたのは、トリプシンとベンズアミジンの複合体(12,635原子/31,795軌道。タンパク質境界から10Å以内に保持した水3,135分子を含む数字だ)と、T4リゾチームとn-ブチルベンゼンの複合体(11,608原子/28,844軌道)である。軌道とは電子が存在しうる空間的な広がりを表す関数で、数が多いほど計算コストが跳ね上がる。
量子側のハードウェアは156量子ビットのIBM Heron r2プロセッサ2台(ibm_clevelandとibm_kobe)で、実際に使ったのはibm_clevelandで最大94量子ビット、ibm_kobeで最大72量子ビットである。原典はこれを利用可能な量子ビットに対する60%と46%にあたるとし、「QPUの相当部分」と評価している2。21,006回の量子回路を実行し、239時間を超える計算時間をかけて30億回の測定結果を得た。古典側は理化学研究所のFugaku(158,976ノード)、NVIDIA GH200を1,120ノード備えるMiyabi-G、およびROQUOの三台を併用している。用いたアルゴリズムはEWF(Embedded Wavefunction)で、フラグメントの求解にはTrimSQDというソルバーを使う。以上の数値は2026年9月の改訂版(v2)に拠る。
両者がどれだけの計算資源を食ったかは、論文の表XIに載っている。最小基底STO-3Gでの計算に限ると、量子側の実機時間は2系合わせておよそ106時間である。対する古典側の対角化はFugakuで約67.8万ノード時を要している2。同じ表にはMiyabi-Gでの約7,700 GPU時も載るが、これは同じ量子サンプルの対角化を別のHPCで解き直した「移植性」確認の計算である2。このFugakuの値は量子側の実機時間のおよそ6,400倍だが、原典がこの比を書いているわけではなく、表の値を合算すると出てくる数字だ。そしてこれは量子側が6,400倍速いという意味ではない。 量子側が担うのはサンプリングだけで、対角化という重い工程は丸ごと古典側にある。この比は、同じ問題を二者がそれぞれ単独で解いた結果の比較ではないので、性能比としては読めない。なお改訂版は、T4リゾチームの基底関数を一部3-21Gへ上げた計算も同じ表に載せており、そちらの古典側はFugakuで約377万ノード時と、同じ系の最小基底の計算に対しておよそ10倍に膨らんでいる2。
成果として著者らは、HQCのこれまでの最先端(303原子)と比べて系のサイズで40倍を超える増加、72.5%の並列効率を報告している2。「精度で最大210倍」のほうは同じ系での比ではない。これは、SQDやExtSQDに基づく先行研究の最大フラグメントでDMRGとの差が21 mHaだったのに対し、本研究のトリプシン最大フラグメントでは0.1 mHaだった、という比である2。
著者自身が「優位性ではない」と書いている
著者らは「we do not regard the results reported here as basis of a quantum advantage claim」と明記する。そのうえで、この結果は二つのことの兆候だと続ける2。一つは「(i) HQC methods are becoming more accurate and efficient」。もう一つは「(ii) progress in computational implementation can further enhance the performance of classical methods」だ。後者は、計算実装の進歩が古典手法の性能をさらに引き上げうる、という意味だ。実際そのあと著者らは、今回の高速化を担った線形代数カーネル SBD-G を古典側のSCI実装へ統合することを今後の目標に挙げている。量子優位性の根拠とはみなさないという慎重さは、自分たちの成果の一部が古典側の底上げに使えるという認識と組になっている。
著者らがこの結論を「As a consequence(その結果として)」と受けているのは、直前で比較の条件を自ら明かした段落である。TrimSQD の速さの主因は SBD-G という実装上の工夫だ、と著者らは書く。著者らは比較相手も「specific CPU-based open-source implementations of SCI and DMRG without particularly developed parallelization strategies」と明かしている。つまり比較相手は、特に並列化を作り込んでいないCPU版の古典ソルバだった2。
別の慎重さも記されている。最小基底STO-3Gで計算した結合エネルギーは、対象の2複合体を、古典だけのフラグメントソルバー(EWF–CCSD)と量子古典ハイブリッドのソルバー(EWF–TrimSQD)の二手法で解いた4通りすべてで正の値になった(+9.30〜+35.89 kcal/mol)2。原典は二手法の結合エネルギーを「comparable」と書いており、同じ埋め込みのもとでは古典だけのソルバーも同じ2複合体を解いている2。原典の符号規約 Ebinding = Ebound − Eunbound − Eligand では正は「複合体のほうが高エネルギー=結合しない」を意味する。一方で原典は、ベンズアミジンをトリプシンのよく知られた阻害剤、n-ブチルベンゼンをT4リゾチームの空洞に高い親和性を持つリガンドと書いており、著者らはこの正の値を「too positive」と表現している2。STO-3Gは基底関数系(分子内の電子分布を近似的に表現する関数の集合)のうち最小限のもので、精度より計算コストの軽さを優先した粗い設定にあたる。
改訂版はこの点に手を入れている。T4リゾチームでは、リガンドとその近傍の基底関数を3-21Gへ上げ、各フラグメントに含める周囲の電子と軌道(浴)を切り捨てるしきい値を下げてフラグメントを大きくすることで、結合エネルギーが負になったと報告する2。トリプシンでは、リガンドの電荷が作る静電ポテンシャルのずれを補正することで、同じく負になったと報告する2。表IXの値は二手法でT4リゾチームが−17.31/−21.07 kcal/mol、トリプシンが−130.59/−131.32 kcal/molである2。その代わり前者では古典側の計算量が先に見たとおりおよそ10倍に増え、後者について原典は長距離の電荷ゆらぎの扱いを今後の課題として残している2。
主張は、あとから古典に追いつかれてきた
EisertとPreskillは、量子優位性へ至る道のりに残る四つの「隙間」を整理した論文の中で、発表当初は古典の手が届かないとされ、あとから古典計算で再現された事例を二つ挙げている3。
一つ目は、IBMが127量子ビットの2D kicked Isingモデルで示した結果で、当初は量子ユーティリティ、つまり耐故障性を得る前の段階でも量子計算が役に立つことの実証とされた3。この結果は「were quickly matched by classical calculations using both tensor-network methods and sparse Pauli dynamics」と評される3。テンソルネットワーク法(量子状態の膨大な自由度から重要な相関だけを抜き出し圧縮して古典計算機で扱う手法群)とスパースPauli力学という二種類の古典計算に、すぐ追いつかれたことになる。
二つ目は、D-Waveがスピングラスの動力学について古典の手が届かないとした報告である。この報告についても、原典は「have been partially reproduced using classical tensor-network simulations」と書く。古典的なテンソルネットワークシミュレーションがこの結果を部分的に再現した、という意味だ3。ただし原典は、この応酬をすぐさま古典側の勝ちとは読んでいない。二つの事例を挙げた直後で、量子側と古典側のやり取りを「healthy back-and-forth」と評価しつつ、「making a fair comparison involves some subtleties」と留保する3。古典シミュレーションは小さな系に限られがちで、量子側の精度には限りがあり、しかも引き出せる情報は古典シミュレーションの出力からのほうが多い。量子側で測定を何度繰り返しても、この差は埋まらない3。同じ節で原典は、NISQ期の量子シミュレーションは精度が高くなくても定性的には有益でありうるとし、Googleの103量子ビットプロセッサによるout-of-time-order correlatorの計算を、古典シミュレーションが難しいと論じうる領域の例に挙げる3。定量的に有用なデータを得るには、おそらく耐故障量子計算機が要るとも書いている。ただし同じ文で原典は、二次元の強結合格子系のシミュレーションなら、演算回数が10⁶〜10⁹回規模(megaquopからgigaquop)の比較的近い将来のデジタル量子計算機で、有用な量子優位が得られうるとしている3。量子の主張を、同じ問題をいま古典が解けるかで測るときにも、公平な比較には機微があるというこの留保はそのままかかる。
量子アルゴリズムを、古典で走らせる
Hosseini Jenabらは、量子アルゴリズムそのものを古典計算機で走らせた。彼らは工業的に重要なルテニウム触媒の電子構造ハミルトニアンを、要旨が100〜124量子ビットと呼ぶ規模のままNVIDIAのGPU上で古典的にシミュレーションした4。量子ハードウェアが何かに失敗したことを示す実験ではない。著者らは、IBM Heronの77量子ビットをFugakuと結んだ2025年の量子古典計算をこれまでで最大の例として挙げ、自分たちの古典計算がそれを量子ビット数でも解くまでの時間でも上回ると書いている4。
用いた手法はiQCC(iterative qubit coupled cluster)というアルゴリズムで、もともとは量子コンピュータ上での実行を想定して設計されたものだ。著者らはこの手法について「confines the variational evolution to a classically simulable operator subspace」と説明する4。つまりiQCCは、変分的な状態の発展を、古典的にシミュレート可能な演算子の部分空間に閉じ込める。この制約があるからこそGPU上で再現できる。
著者らは、逐次実行のCPUアプローチと比べて「speedups exceeding two orders of magnitude」を達成したと書く。高速化の幅は二桁を超え、基底状態計算全体は1.2〜45時間で完了した4。精度についても、標準的な古典手法であるDMRG(密度行列繰り込み群、強く相関した電子系を扱うために考案された古典アルゴリズム)を上回ったと報告している。ただし本文はより限定的だ。DMRG-CIのエネルギーを変分的に下回ったのは8系中7系で、残る1系ではiQCCのほうが高い。ところが、その差の数字は原典の中で割れている。本文は6.8 mHaと書き、下回った幅を0.33〜1.8 mHaとするが、表II・IIIが載せる「DMRGとの差」はその1系で+5.382 mHa、残る7系で0.042〜1.965 mHaである4。その1系については、PTやILCAP-BWといった非変分的な摂動補正でもDMRG-CIを下回れなかったと原典は付記している4。討論部では、単一参照のiQCCは8系中7系でDMRG-CIを上回ったものの、系が多参照性を持つと苦戦すると書いている4。
しかも比較相手のDMRG-CI値は別論文(von Burg ら 2021)の公表値で、著者ら自身が「軌道順序の工夫や結合次元・スイープ数の増加で下げられる(IX系では−1.7 mHa)」と注記している。つまり、主張された差と、著者ら自身が認める改善余地は同じ桁にある。そのIX系で下回った幅は、表IIIの記載では0.042 mHa、同じ列のエネルギーから引き算すると0.57 mHa。どちらで読んでも改善余地のほうが大きい4。原典はさらに、同じ設定で同じ系を走らせても最終エネルギーはわずかに揺れると書き、その原因を、推定勾配が並んだエンタングラーの優先順位をコードが無作為に決めることがある点に置いている4。一方で原典は、別文献が報告したXVIII系(64e,56o)のDMRGエネルギーと比べてもiQCCが1.6 mHa下回ったと書いている4。
同じ論文は、8系のうちXVIII系についてはCAS(100e,100o)、量子ビット数にして200まで規模を広げた実行も報告しており、NVIDIA Blackwell B300上で3.49時間で完了したとする4。ここから彼らは「extending classical tractability to the 200-qubit regime on commodity GPU hardware」と書く。彼らは、市販のGPUハードウェア上で古典的に扱える範囲を200量子ビット領域まで広げたとしている。ただし200量子ビットの実行が示しているのは規模と実行時間であり、XVIII系でDMRG-CIと精度を比べたのは112量子ビット(CAS(64e,56o))の計算である。8系全体では、DMRG-CIとの比較は表II・IIIの130量子ビット(CAS(74e,65o)とCAS(76e,65o))の2系まで及び、上端は要旨の書く124量子ビットを超える4。
この結果を受けて著者らは、自分たちの成果が「effectively de-quantize a significant portion of the NISQ roadmap」だと述べる4。NISQロードマップの相当部分を事実上脱量子化した、という意味だ。原典がここで対比させているのは、化学の量子優位性が現れる境界を約50量子ビットに置いてきた従来の想定である。原典はその想定を「quantum advantage for chemistry is often assumed to emerge beyond ∼50 qubits」と書く。その境界は「significantly further—potentially past 200 qubits」、つまり従来の約50量子ビットより大きく先にあり、200量子ビットを超える可能性もある、というのが彼らの示唆だ。ただし同じ論文は、DMRG-CIを下回れなかった104量子ビットの1系について、誤り訂正を前提にした量子計算機上の量子位相推定なら、その規模でもまだ優位が残りうると書いている4。
狙いは「強相関の隅」だ
EisertとPreskillは、米エネルギー省が運用するあるHPC施設の最近の推計として「over 30% of compute cycles are spent on density functional theory computations for chemistry and materials science」を引いている3。その施設の全計算サイクルの30%超が化学・材料のDFT(密度汎関数理論、電子密度から系のエネルギーを近似的に求める手法で、現在の化学計算の主力)に費やされている、という意味だ。同じ推計では格子QCDが18%超、DFT以外の化学アルゴリズムは約2.6%にとどまる。この領域は古典計算機が現に、しかも大量に処理している。続けて原典は、アルゴリズムとハードウェアの双方が進み続けるにつれて「classical methods are conquering more and more challenging problems」と書く3。古典手法はますます難しい問題を征服している、という意味だ。そのうえで、量子計算が優位性を示す標的は「the (now) relatively small ‘strongly correlated’ corner of chemistry and materials research, where classical methods falter」だと述べる3。古典手法が苦戦する、いまとなっては相対的に小さな「強相関」(電子同士の相互作用が強く、単純な近似では振る舞いを記述しきれない系)の隅に絞られるという意味だ。ただし原典はその直後で、物理的に関心のある特定のハミルトニアンの基底状態問題が、古典には難しく量子には易しいと説得的に論じること自体が難しいとも書いている3。
CastaldoとReiherは、回路の深さに制約のある量子計算機向けに資源を意識したアルゴリズムの例として、Toshioらによる先行研究を引用している。それによれば、8×8サイトのHubbardモデル(現在の古典計算能力では厳密解が得られないとされるモデル)の選ばれた固有値を推定するプロトコルは、量子計算機上の逐次実行でおよそ10日を要すると見積もられている1。これはCastaldoとReiherが自ら測定した数字ではなく、彼らが引用する形で紹介しているものである。
CastaldoとReiherは、同じ問いに別の角度から接近する。実験を報告する論文ではなく、現状を整理して展望を述べるパースペクティブ論文である1。本稿が引く四本のうち査読を経たのはこの一本だけで(2026年7月に The Journal of Physical Chemistry Letters 誌に掲載)、残る三本は査読前のプレプリントである1。量子アルゴリズムの開発は台頭しつつある量子ハードウェアの制約の変化に適応しなければ、計算化学実務での優位性を達成できないと論じる1。そのうえで、コンパイル体制を論じた結論部で「We emphasize that, to date, no clear demonstration of a useful quantum advantage has been achieved yet」と強調して書く1。有用な量子優位性の明確な実証は、今日までのところ達成されていないという意味だ。要旨のほうでは、本稿の題そのものにあたる一文として「the continuous advancement of classical wavefunction-theory methods narrows the window for a broad quantum advantage」と書いている1。古典の波動関数理論が進むほど、広い量子優位性の窓は狭まる、という意味だ。二人は、量子アルゴリズムは少数の強相関分子を精密に解くだけでなく、量子で加速した計算を、任意の分子を日常的に計算する高スループットのパイプラインに組み込めるものでなければならないと主張する1。化学の問題を解く計算の多くは「weakly correlated (single-reference) structures」、つまり弱く相関し単一の参照配置で近似できる構造を扱うことになり、そこでは結合クラスター法が確立している、と二人は書く1。活性空間を定義する必要のない系では、基準手法はCCSD(T)(電子相関を高い精度で扱う、実務の標準にあたる古典手法)のままだ。だから量子計算化学は「the runtime needed to reach chemical accuracy with CCSD(T)」と比べなければならない、と二人は書く1。比べる相手は、化学的精度に届くまでにCCSD(T)が要する実行時間である。
ここで二本の出典は交差する。Hosseini Jenabらが解いたルテニウム触媒は、von Burgらが2021年に量子計算の応用先として提案し、電子積分ファイルまで公開した系である。iQCC論文はその複合体群を「class-2」の例だと書く。同論文によれば、class-2 は多配置電子構造の分類で、古典手法にとって最も難しい標的であり、量子アルゴリズムの自然なベンチマークとされる4。その class-2 という分類を導入したのはMörchenら2024の論文で、共著者にMarkus Reiherが入っている。CastaldoとReiherも同じ class-2 を「very hard to handle on classical computers and therefore considered as ultimate targets for quantum computation」と呼ぶ1。古典計算機では扱うのが非常に難しく、それゆえ量子計算の究極の標的とみなされる、という意味だ。その標的に指名された系が、いまはGPU上の古典計算で1.2〜45時間のうちに計算されている。
どこまで来れば効くのか
誤り訂正(量子ビットが受ける雑音由来のエラーを検出・修正し、計算結果の信頼性を保つ仕組み)の観点から見た敷居も、EisertとPreskillは具体的な数字で示している。物理的な2量子ビットゲートの誤り率はしきい値のおよそ10⁻²を下回る必要があり、たとえば物理誤り率を10⁻³と仮定すると、論理誤り率10⁻¹¹を得るには表面符号の符号距離が d ≈ 19 必要になる。論理量子ビットとは、複数の物理量子ビットを組み合わせ誤り訂正を施し、安定した量子ビットとして扱えるようにしたものだ。彼らはこれを、補助量子ビットと論理ゲートのオーバーヘッドまで含めると論理量子ビット1個あたりおよそ10³個の物理量子ビットにあたるとする。原典が置いている想定は、10³個の論理量子ビットを10⁸ステップ動かす高度に並列なアルゴリズムであり、その規模なら物理量子ビットは全体で約10⁶個になる。原典はそこに「far beyond the scale of current devices」と付し、現行機の規模をはるかに超えるとしている3。もっとも原典自身は、ハードウェア性能の継続的な改善が「いずれ耐故障量子計算のオーバーヘッド費用を下げる(will eventually reduce the overhead cost of fault-tolerant quantum computing)」とも書いている。約10⁶個という数字は、物理誤り率を10⁻³と置いた前提の上に立っている3。
では、どこまで行けば「広く有用」なのか。EisertとPreskillは自前の推計ではなく他者の見積もりを引く形で、その目安を「about 10¹² such operations (a teraquop) or more」に置いている3。これは2量子ビット演算にしておよそ1兆回以上にあたる。今日の最も高性能なNISQ機が実行できるのは同じ演算で1万回未満だから、目標との差は8桁ある。その途中に「megaquop」(10⁶回の演算規模)、「gigaquop」(10⁹回の演算規模)という段階を通ると彼らは想定している。ただし時間軸についての明言は、この段階論に付いたものではない。付いているのは、その手前にある耐故障性への移行のほうだ。原典は、誤り率が桁違いに改善したマシンへの移行が「will unfold gradually on a timescale that remains highly uncertain」と書き、その理由に大規模量子計算機の構築が途方もない工学的挑戦であることを挙げる3。
出典4件
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Castaldo, Reiher「Utility-scale quantum computational chemistry」The Journal of Physical Chemistry Letters, 2026. https://arxiv.org/abs/2603.19081 https://doi.org/10.1021/acs.jpclett.6c00888 — 査読を経たパースペクティブ論文。有用な量子優位性は未実証とする。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9 ↩10 ↩11
-
Merz ほか「Crossing the 12,000-atom barrier with heterogeneous quantum-classical supercomputing」arXiv, 2026. https://arxiv.org/abs/2605.01138 — 査読前。2複合体を量子古典ハイブリッドで解き、数値はv2(2026年9月)に拠る。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9 ↩10 ↩11 ↩12 ↩13 ↩14 ↩15 ↩16 ↩17
-
Jens Eisert, John Preskill「Mind the gaps: The fraught road to quantum advantage」arXiv, 2025. https://arxiv.org/abs/2510.19928 — 査読前(2026年5月改訂)。量子優位性への道に残る四つの隙間を整理し、標的を強相関の隅に絞る。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9 ↩10 ↩11 ↩12 ↩13 ↩14 ↩15 ↩16 ↩17 ↩18
-
Seyyed Mehdi Hosseini Jenab ほか「Parallel iQCC Enables 200 Qubit Scale Quantum Chemistry…」arXiv, 2026. https://arxiv.org/abs/2603.08883 — 査読前。ルテニウム触媒8系をGPU上で古典的に解き、DMRG-CIと精度を比べた。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9 ↩10 ↩11 ↩12 ↩13 ↩14 ↩15 ↩16
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